
2011/07/25
「何のために日々勉強するのか。」
今までいろいろな話を聞いたり読んだりしてきた中で、印象的だったものを3つ紹介したい。
まず、1つ目。
あれは何年前だったであろうか。本校で行われた(生徒対象の)進路講演会で講師の方が話した内容である。その講師は「学ぶ意味」とは「トランプの『7並べ』と同じなんだ」と言っておられた。詳細を以下に振り返る。
トランプで行う「7並べ」というゲームは、まず♧♡♢♤の4種類の「7」を縦に並べる。対戦相手が出したカードに連続するカードを手元から出していき、自分の手持ちカードの全てが早くなくなった人が勝ち、というルールである。つまり自分が「9」を持っている場合には誰かが「8」を場に放出してくれないと「9」を出せないというゲームである。
この場合、手持ちに「A」と「K」が多いと大変である。両方とも最も端のカードであるから、最後まで手元に残る上、そこに至るまでのカード(「2」や「Q」)が全て場に放出されるまで「パス」をしながら待ち続けるからだ。その間に対戦相手に次々と順番が回り、相手が確実にカードを活かす場面を与えてしまうことになる。
つまり、「A」や「K」といった最終目標を自分の手から表出させ活かすためには、まず「8」や「9」といった地味なカードを活かし、あるいは活かさせ(活躍を下支えする「目立たない部分の実力」を蓄え、保有し)、それを確実に放出する、あるいは放出させない限り(次のカード(実力)を発揮するために活用しない限り)、次の「高みに至るためのカード」を活かせない(目標に到達するための次のステップへの足掛かりを得られない)のである、ということを伝えたかったのである。
「A」や「K」は他の地味なカードとは違い、文字通り「エース(1番)」や「キング(王者)」を意味する。
つまり、「A」や「K」といった「最終目標」「最終到達点」に達することのみを思い描いているだけではいけないのである。その手元に持っている最終到達点(「A」や「K」)を具体的な形にする(放出する)ためには、そこに至るまでの地味な努力をし、そのステップを確実に自分の血や肉にしながら保有し(地味なカードを持ち)、次のステップを得られるように、活かせるように、発揮できるようにしないといけないのである。その積み重ねの一部を怠ると(1枚でも抜けると)、自分の目標は達成されないのである。せっかく持った「A」や「K」といった「輝く目標」は宝の持ち腐れのまま終わってしまうのである。
講師の方は「学ぶ意味」とは「トランプの『A』や『K』(自分の中の最終目標)を生かすための基本の習得なんだ」と言っておられました。
次に2つ目。
人生を豊かに生きるための材料が1000個ばらまかれたように散在しているのが世の中とする。その中で所構わずバラバラに散りばめられている「人生を豊かにするための知識」を系統別に拾い集め、その1つ1つの集合体をそれぞれパッケージにまとめ上げる。そのパッケージはいくつにもなる。その1つ1つが「教科」なのだ。
人生を豊かにするということは、学んだことをリンクさせながら自分なりのノウハウを築き上げていくことだとすれば、先ほどの1000個ある要素のうち50個を拾い集めたパッケージ(とある教科)が抜け落ちていたとすれば(未修得であったとすれば)、その分だけ張り巡らされるはずのリンクが欠落しているということを意味する。抜け落ちた1つの要素は他のいくつもの要素とリンクされるものであるから、1つの欠落とて「1の欠落」とカウントされない。リンクできない(関連づけてまとめられない)ということは、「1つの欠落」がその数倍の欠落を意味する、ということになる。
にもかかわらず、自分の好き嫌いで「1つのパッケージ」をまるごと拒否する(1つの教科を丸ごとあきらめ、放棄する)ということは、自分の未来に大きな損失を与えることになる。たかが、好き嫌いで、である。
3つ目。
高橋和巳(『悲の器』『邪宗門』などの小説で有名な作家。1931生まれ。39歳で結腸癌のため死去)が、「知の網(あみ)」という表現を使っていた。私は個人的には漢字を1つ加えて「知の網目」と表現した方が分かりやすいと思っている。
以下、抜粋。
「捕れた魚が実際に引っかかっている網目とういうのは一つだが、その一つが生きるためには膨大な網が必要である。同じように、ひとつの知識が生かされるためには、背後に膨大な知の網が必要である。」
すごい表現である。繰り返しになるが「漁をするのに一匹の魚が引っかかる網目はせいぜい3~4目。しかし3~4目しかない網を海に入れる漁師はいないだろう。一匹の魚を獲るために膨大な網を広げる。それと同じように知識を役立たせるには、膨大な知の蓄積がなければならないのだ」ということである。私は今までに、学びの意味をこれほど的確に表した言葉には出会ったことがない。
「人生を豊かにするために」という表現で語られる「学びの意味」。今回は生活指導についてではなく、学びの意味から書いてみた。
次に。
勉強・学問といったものはものすごく効率の悪いもので、生涯一度も役立たずに終わるような(これは実は正しい表現ではないのだが)知識が山ほどあって初めていくつかの知識が役に立つ、しかも決定的に必要になる、そういう性質がある。
私たち教員の使命の中で一番大切にしなければならないこと、つまり、生徒にも常に求めなければいけないことの一つが「しっかり勉強」である。具体性に欠けるからどうしたらいいのか今ひとつ不明に聞こえてしまうが、上記のようなことを心がけながら様々に工夫して仕掛けていきたいところである。
最近の生徒は「こんな『役に立つか立たないか分からないような勉強』を、なぜしなければならないのか」ということを平気ですぐに言う。多くの場合は、そういう「薄っぺらい言葉」を前面に立てることで、勉強を強いる大人・社会が発する不文律と、面倒な勉強から逃げたい自分との間に生じる葛藤を「たかが薄っぺらい理屈」で相殺しようとするものである。
そのような言葉には耳を貸せる必要はないと思っている。
そのような言葉を発している間にも、勉強を求めるべきである。なぜか。その間に大人が何も求めなければ、その生徒が「9」や「3」を保有する機会を奪うことになり、とあるパッケージの1部分が抜け落ちることを分かっていながらも見逃すことになり、知の網目をほつれさせ、その小さな「ほつれ」が次の網目をほつれさせ、やがて網全体に大きな穴となり広がっていく様子を、まるで人事のように静観していることになるからである。
ところで中国語では「学ぶ」ことを「学習」と言い「勉強」とは言わない、という話を聞いたことがある。中国語の「勉強」は「強制」を意味する言葉だからである。(だから昔の八百屋さんは、無理に値を下げることを「勉強します」(無理をします)と言ったりする。)
その中国語の「学ぶ」と「強制」が日本で混同されたのは、やはり言葉が日本に伝わってきた2000年ほど前も、学ぶことが常に強制を伴っていたからなのであろう。
確認だが、このことからも大人側は「(生徒も、自分も)学習は気楽にできることではない」ということは肝に銘じておくべきことである。
今は「一生、勉強」という時代である。
以前は「大学で得た知識で、一生働いていく」、すこし乱暴だが、そんな感じであった。ところが今の世の中のすごい変化のスピード、さらに、グローバリズム。この変化の中で海外との競争はますます激化し、日本は「今までの日本らしさ」を維持できない状況にある。終身雇用も年功序列も今や「死語」となった。
「大学で得た知識で、一生働いていく」ことも同じである。通用しない。常に、知識やノウハウをアップデートしておかねば今後の変化に富む世の中に対応できない。「一生、勉強」の言葉は、このような内容も意味する。
進路が変わった時、仕事が変わった時、あるいはそのような状況を突きつけられた時、対応する力を下支えするものは何か? それは「学力」である。
対応力を求められる中、その対応力の基礎はやはり「地味なカード(基礎)をどのくらい確実に血肉化できているか」「幾種類のパッケージ(基礎学力)をいくつ血肉化できているか」「知の網目(あらゆるものをリンクさせる背景的知識と技能)をどれだけ張り巡らせているのか」に、かかってくる。
次に。
「自分らしく働きたい。」
今の若者はすぐにそんな言葉を口にする。しかし、「自分らしく働きたい」という台詞は、新社会人、あるいは働き始めて数年の者が口にできる言葉ではないはずである。地味な下積みのような仕事を何年も経験し、次第に会社の全体像、仕事の流れが細部まで分かり、あるいは自分が組織の歯車の一つになってみて、その歯車(自分)がどう駆動すれば、全体がどのように走行するのかが分かり、よって、自分という歯車が全体にどう反映されるのかを見出した上で初めて、「自分らしく働ける」あるいは「独り立ちができる」という実力を手にする。
実力がない段階での「自分らしく働きたい」という言葉の意味するところは、「嫌な思いをせず、苦労もせず、他人に指摘もされず、伸び伸びと、ストレスも溜めずに働きたい」という「わがまま」以外の何物でもない。私たち大人は、「仕事に関して、そんなことはありえない」「絵空事だ」ということは嫌なほど分かっている。
「自分らしく働ける」は「A」や「K」に他ならないはずである。7並べの「6」も「8」も手にしていない者が、口にできる言葉ではない。
勉強だけではなく仕事についても、社会人になっても、やはり、その職種における「地味なカード」「パッケージ」「知の網目」が新たに必要になる。それを支えるものは「勉強」「探究心」そして「真面目」である。
やっと、生活指導の話にたどり着きました。
「真面目」。
これが、全ての下支えである。真面目でなければ、今の目の前の勉強すら、つまり「地味なカード」「パッケージ」「知の網目」にすら取り組めない。
なぜ真面目が大切なのかについては、本校HP内の教員リレーブログの中の文章を探していただきたい。
話が変わって、東日本大震災に関して。
今回の大震災では政府の対応は決して高くない評価を受けたが、日本人の資質はとんでもなく高く評価された。被災された方々の冷静な行動、日本人の真面目さが海外から見れば驚くべきことだったのである。
ネットで拾い集めた中から、いくつか紹介したい。
今回の地震により交通機関が麻痺した東京にいた中国人の話としてこんなことが載っていた。
「数百人が広場に避難していたが、その間、誰もタバコを吸うものはいなかった。毛布やお湯、ビスケットが与えられ、男性は女性を助けている。3時間後に人々は解散したが、地面にはゴミ一つ落ちていなかった。一つもだ。」
次に、日本にいるベトナムの方の話。これは関東圏での避難所の風景についてだ。
「怒鳴り合いもけんかもない。本当に強い国だけがこうした対応ができる。防災訓練を受けていても怖いはずなのに、誰もパニックに陥る人はいない。自分の仕事に集中し、連絡を取り合っていた。われわれが学ぶべき多くのことが分かった。」
また別の留学生は、
「教師が子どもたちを誘導する姿など、行政当局者から民間人までの素早い対応ぶりに驚いた。こうした強さゆえに、日本人は世界で最も厳しい条件の国土で生き抜き、米国に並ぶ経済レベルを達成できたのだ。」
そして、ロシア新聞にはこんな記事が載った。
「日本には最も困難な試練に立ち向かうことを可能にする『人間の連帯』が今も存在している。重要なのは、他の国ならこうした状況下で簡単に起こり得る混乱や暴力、略奪などの報道がいまだに一件もないことだ。」
次に、「震災当日の3月11日、公共交通が止まってサラリーマンが帰宅の足を奪われた東京でも、人々は互いに助け合っていた。レストランや商店はペットボトル入りの飲料水を無料で提供し、トイレを開放した。」続いて「直後は、東京電力が輪番停電を計画したところ需要が極端に減って、供給の枠の中にとどまったため、計画のごくごく一部を実施しただけで済んだ。企業や個人が一斉に節電に協力したからだと言われている。」
帰宅困難者を支える際の風景を切り取ったものだ。3月11日の日は東京都内に帰宅難民と呼ばれる人が相当数出て、しかし皆、黙々と家路についた。ある人は徒歩で、別の人たちはバスやタクシーを数時間も待ちながら、不満を言う人も、騒乱を起こす人もいなかった。
私たちには「他人を守る」という強い力がある。「ルールを守る」という力もある。我慢強く何かに耐えるという力もある。お互いに手を繋ぎあい、みんなでこの困難を切り抜けようという強い気持ちがある。
いまだに私たちができることはほとんどない。せいぜい募金や寄付、節電ぐらいである。この大変な困難から再び立ち上がり、私たちの日本は蘇ることを、私たち日本人はなんとなく知っている。
これが、日本の力である。
福島第一原発の事故現場では、大量の東電社員が、大成建設や東芝の社員が、無名の協力企業や下請け会社の社員が、必死に頑張っている。自衛隊も警視庁も消防も死に物狂いで戦ってくれた。政府も何となく頼りないが、それでも誠実にやろうとしてはくれている。そんなふうに私たちは素直に思い込んでいるし、思い込んでいてもそう大きく裏切られない社会に住んでいるということが大切である。
これは「日本だからこそ」与えられている信頼感なのである。
日本では、政府要人や財界人が密かに家族を外国に逃がし、財産を海外に移すというようなことを心配しなくて済んだ。一部芸能人が西日本に避難した上に水を買い占めているという噂があったが、それに対する反応は「○○がやっているから後に続け」というのではなく「こんなバカなことをしている芸能人がいる」といった揶揄として語られていた。
さらに、日本の資産家の中には復興のためにと平気で100億円を寄付し、さらに生涯の役員報酬を震災孤児のために寄付してくれる。二十歳にもならない天才ゴルファーが、賞金のすべてを寄付すると平気で言える。芸能人の一部は「売名」といった誹謗をもろともせず、繰り返し慰問に向かう。
放射線は政府やマスコミが大丈夫というから大丈夫なのだろう。政府が避難しろというから避難したがそれが購(あがな)われないことはない。福島県など4県のホウレンソウやカキナが危ないということは他の県の野菜は絶対に大丈夫だということだ。どんな小さな商店でもその4県のホウレンソウやカキナを安く仕入れて産地を偽って売るようなことはしない。そういったことはすべて信じられることなのである。
それどころか、該当する4県の農産物を進んで買おうとする消費者さえ増えている。もちろん放射能汚染レベルが安全と規定される基準内の農産物であるが、これを「安全性の検査に偽りがない」と信じられるところが1つ目。さらに「困った時こそお互いさま」「被災農家のためになりたい」というコメントが聞かれることが2点目。
これが日本人の底力なのである。
生徒たちに大きな声で語りたいことである。
ただ、失われた命は戻らない。
だからこそ、本校でも、この3月と4月の終業式ならびに始業式では、校長も教頭も私も、さらに各教室では各クラスの担任も「命」について大きな声で語りかけた。
最後に。
福島原発に関する報道一色に日本中が覆われた期間に、(スポンサーがつかなかったこともあり)繰り返し流されたAC(公共広告機構)のCM。その中で、妊婦に席を譲ることを頭では分かっていながら譲れず、罪悪感を持っていた男子高校生が次の機会にはその優しさを形にする(階段に苦労する老婆に手を差し出す)というものがあった。(「思い」は見えないが「思いやり」は見える。だからその「思い」を形に、というCMもあった。)
このCMが繰り返し流されたあと、日本全国で、席を譲る若者も大人も増えた。
こういうことが分かり合えるのも日本人。
日本人の力について、これ以上を文字で書く必要もない。今回の色々な現象が日本人の力を示しているからだ。ただ、もう一つ。
本校でも、本校生徒で込み合う朝のバスに乗ろうとした視覚障害者の方がバスの中で転倒し困っている時にそれを助けてあげられなかったという反省材料が、外部(その方の関係者)の電話から分かった。5月のことである。それを全校に一斉に伝えた後には、その方に対する配慮ばかりか、バス内でのマナーが深まった。その方は視覚が不自由なのだが、バスの中の空気でその変化を確実に感じ取ってくれていた。そして、その関係者がわざわざ電話で報告を入れてくれた。
これも本校生徒たちに大きな声で語りたいことである。
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