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2011年 冬 PTA会報から  生活指導部長 瀧川 哲朗

無責任な雰囲気の世の中で

家庭と学校ができること

しなければいけないこと

昨年度のPTA会長の藤森さんは折にふれ「食生活を見直す必要がある」「無添加、無農薬の食材を重視しないといけない」ということを語っておられた。PTA総会や役員会でも、また、卒業式でも。常々そのようにお話をされる理由を別の機会に尋ねてみると、なんでも、ご自身がそのような無添加・無農薬の食生活を半年以上続けたら体の調子や回復力が劇的に高まったという経験をされ、食事の大切さを痛感したからなのだそうだ。

今年度の春のPTA役員会の折に私がその話をすると、現PTA会長の上條さんもこの話にはずいぶん共感しておられた。そして、私が今回書く文章の狙いと全く同じことを上條さんもその席で述べてくれた。上條さんが述べてくれた話については最後に紹介したいと思う。

ところで、今回、私はこの2名の会長さんの話が色々に当てはまるということを順を追って書いてみたい。

以下、まず、食生活について。

食生活はやはり大切である。これを改めて考えてみる。

たとえば「あなたの体、つまり、あなたの細胞は何で作られますか?」と問われた場合、少し考えればその答えが分かる。

答えはとても単純で「口に入れるもの」ということになる。私たちの体の細胞は、口に入れる水や他の飲み物、口に入れる食べ物からでしか作られない。もちろん運動することで代謝は活発になり、さらに筋肉は作られる。が、それは「過程」や「条件」であるにすぎない。同じく睡眠や呼吸も「条件」である。その筋肉の「原料」は何? と問われれば、「口に入れるもの」のみである。体につけたくはない脂肪もまた「口に入れるもの」のみで作られる。

私たちの体は「口に入れるもの」でしか作られない。「口に入れるもの」が原料になり細胞が再生され続けるのだ。

しかし、その原料が添加物や農薬で「(表現は悪いが)汚染」されていたならば、自覚こそされないものの細胞レベルで何らかの影響があると考えても不思議ではない。

そこへきて、コンビニやファストフードが乱立し、手軽に買える食べ物がたくさんあり、しかもそれらには添加物がふんだんに使われている。

私たちの生活の中には「細胞の再生に悪影響を与えると考えられる食べ物」が溢れている。これが現実である。

さて、問題はここからである。

「その状況の中で若者に自分の食生活の全てを委ねたら、どうなるだろうか?」

答えは、「間違いなく、食べ物に警戒している者を除き、彼らは、そのような食べ物ばかりを中心に摂取する。」ということになるだろう。手軽であるし、おいしいからである。刺激的な味付けでもあるからだ。

長い間に、一回一回のそのような食事の積み重ねが体(細胞)にダメージを与え、さらにそれが蓄積され、体の再生能力に影響を与えるんだろうな、ということは何となく理解できるし、的外れな見解ではないということも大人ならみな何となく分かっている。藤森さんが言っていた通りである。

しかし、現実は「そのような悪影響をもたらす食べ物が溢れている世の中」に大人も含めみな生きている。

次の問題点はこういうことである。

世の中は一個人では変えられない。

話が変わったように聞こえるかもしれないが、以下のような趣旨だ。

「そのような悪影響をもたらす食べ物が溢れている世の中」を根底から変えるということは一個人にも一学校にもできないことである。だからこそ、そのような世の中で「何を選び、何を食べるか」が重要になってくる。私たち大人の立場に置きかえれば、「子供に何を選ばせ、何を食べるように教えるか(食べさせるか)」が重要になってくるということだ。子どもを真剣に守ろうとするならばどうしても避けられない努力である。子どもの健康を守ろうとするならば、まず、身近な大人が主体的にその目的のための努力をしなければならない。

最後の問題点はこういうことだ。

しかしながら残念なことに、このような「制限」は、時に「管理」という言葉で揶揄されることが多い。「何もそこまでしなくても…」という言葉だ。

話が変わる。

世の中の「情報」はどうだろうか。携帯やPC、スマートフォンなどのマルチメディア端末によって垂れ流される「奇形的な性の情報」。雑誌やドラマ、アニメなどのメディアによってもたらさせる「早期のセックスの誘い」など。

さらに「モラルやマナー」「服装」はどうだろうか。同じくメディアや流行などによってもたらされる次のようなサブリミナル的なメッセージ。つまり、「小さなマナーは要らない、とでもいうような雰囲気」「気軽に相棒や出演者を叩き、馬鹿にし、からかい、これらを具にして『うける』ような何ともモラルのない低品質な番組」、さらに「セックスアピールを伴う露出系ファッション」など。

私たちの体は「口に入れるもの」でしか作られない。「口に入れるもの」が原料になり細胞が再生され続ける。これと同じく、私たちの価値観は、産まれてから今まで生きてきた間に「見たもの」「読んだもの」「聞いたもの」「感じたもの」「その結果考えたこと」、つまり、広い意味での「学習」でしか作られない。

しかし、その材料(インターネットや携帯電話のサイト、番組や雑誌やドラマ、アニメなどの『メディア』)が、「奇形的で早期のセックスを促して終わり」「人をからかって終わり」という内容で「(表現は悪いが)汚染」されていたら、自覚こそされないものの意識レベルでの影響があると考えても不思議ではない。

そこへきて、世の中はそのようなメディアで溢れ、また手軽に触れられる環境にある。私たちの生活の中には「意識の育成に悪影響を与えると考えられるメディア」が溢れている。これが現実だ。

さて、次の問題はここからだ。

その中で、若者に自分自身が触れる「メディアも含む『価値観形成の材料』」の選択の全てを委ねたら、どうなるだろうか?」

「間違いなく、メディアに警戒している者を除き、彼らは、そのようなメディアばかりを中心に取り込んでいく傾向になるだろう。」ということである。手軽であるし、おもしろいからである。刺激的な内容でもある。

長い間に、一回一回のそのような取り込みの積み重ねが意識や考え方へダメージを与え、歪ませ、それらが蓄積され、価値観の形成に影響を与えるんだろうな、ということは何となく理解できるし、的外れな見解ではないと言うことも大人ならみな何となく分かっている。

しかし、現実は「そのような悪影響をもたらすメディアが溢れている世の中」に大人も若者もみな生きている。

次の問題点はこういうことだ。

しかも、その上、一部のメディアは責任をとらない。モラルや健全な性を破壊する媒体を垂れ流すだけ垂れ流しておいて、つまり悪影響を与えるだけ与えておいて、結果的にそれによって傷ついた若者のケアや保障、あるいはモラルの低下について責任を取るどころか、自分たちの影響を点検・検証することもせず、さらにそれどころか「自企業の黒字の具」にし、そこには戸惑いや自制心もない。

さらに次の問題点はこういうことだ。

世の中は一個人では変えられない。「そのような悪影響をもたらす情報が溢れている世の中」を根底から変えるということは一個人にも一学校にもできないことである。だからこそ、その世の中で「何を選び、何に触れるか」が重要になってくる。私たち大人の立場に置きかえれば、「子供にどんなメディアに触れるように教えるか(触れさせるか)」、さらに「子どもが悪質メディアに触れること自体は抑止できないが、触れたとしても、どのようにして影響されないように、日々、予防線を張るのか」が重要になってくる。子どもを真剣に守ろうとするならばどうしても避けられない努力である。子どもの健全を守ろうとするならば、まず、身近な大人が主体的にその目的のための努力をしなければならない。

最後の問題点はこういうことだ。

しかしながら残念なことに、このような「制限」は、時に「管理」という言葉で揶揄されることが多い。「何もそこまでしなくても…」という言葉だ。

だいぶ話がくどくなった。2つは同じだということを分かってほしかったからだ。

次に考えたいこと。

それは、今だから求められる「大人の役割」とは何だろうか、ということ。

まずは、食べ物に関する話に戻す。

最近の「食育」の流れをいくつかのキーワードを使いながら確認してみたい。

「コショク」という言葉について。

「個食(家族が食べるものが『個々にばらばら』)」、

「固食(好きな物ばかりを『固定的』に食べる)」、

「孤食(子ども一人での『孤独』な食事)」。

さらに「ホウショク」という言葉について。

「飽食(『飽きる』ほど腹いっぱいに食べるだけ食べられ、また、食物に不自由しない食生活)」、

「豊食(何でも揃った『豊かすぎる』食事)」。

個人的にはここに「崩食(『崩壊』した食生活)」を付け足したいと思う。

このような言葉が生まれてくる背景が現にあり、学校にも「食育」が導入された。「食育基本法」というのは2005年6月に成立した国民の食事に関する法律である。「子どもたちが豊かな人間性を育み、生きる力を身に付けていくためには、何よりも『食』が重要である。今、改めて、食育を、生きる上での基本であって、知育、徳育及び体育の基礎となるべきものと位置付けるとともに、様々な経験を通じて『食』に関する知識と『食』を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てる食育を推進することが求められている。」(前文)

学校教育の三本柱(知育・徳育・体育)の基礎に食育を据えるということだから、逆にいえば、国家が国民の食事に法を持って口出しをするという意味では、お節介で情けない法律である。しかし、現実に目の前にある「崩食」を考えれば、必要な、そして重要なものである。「コショク」や「ホウショク」という言葉が生まれる背景が現にあり、それに対する危惧から「求められてできた対処法」の一つが「食育基本法」なのである。

では、なぜ「求められた」のか? 「求められた先」「その責任の担い手」は誰であるのか?

食育の責任の重きは「学校」ではなく実は「家庭」に置かれている。学校は「食」を教えもするが、同時に各家庭への「食育」を仲介しているだけの「システムの一部(きっかけ)」であるにすぎない。以下に解説する。

現在でも朝食にいくらでもエネルギーを注ぐことのできる家庭はたくさんあるが、その一方で全国的には、朝からお茶漬けを食べて登校させられてくる生徒、コンビニ弁当の生徒、食パンと牛乳だけの生徒、そして何も食べずに登校してくる生徒が現に増えているという報告を聞く。当然、夕飯だって、内容も食べる環境も豊かではないであろうと推測する。

このような危惧を、上記の「求められた先」「その責任の担い手」である各家庭に分かっていただくために、学校が「食育」を仲介している。これが現実なのである。保護者の方々は覚えていらっしゃいますでしょうか? 義務教育では時々「家庭での食事の内容を書いて提出」などの宿題が出されることがある。子どもが小学生か中学生の頃にそんな宿題はありませんでしたか? これは家庭への「ちゃんとした食事を用意してください」という暗黙のメッセージとチェックなのである。そんな意味の宿題であるのだということは誰の眼にも明らかである。

繰り返しになるが、学校が家庭の食事にまで手を出さなければならないのは本当に情けないことである。しかし、それが必要であるのならば、やらなくてはならない。

同じことが、なぜ小中の入学式を初めとする機会などに学校側が「早寝・早起き・朝ごはん」の話を児童生徒に対してするのか、それがどういう意図でなされるのか、についても言える。これについて詳しくは、2009年度夏のPTA会報をお読みいただきたい。

あと、5つ書いて話を終わりにする。

ここまで書いたように、放っておいたら児童生徒が「(言葉は悪いですが)汚染されてしまう世の中」の状態が現に目の前にある。そして、若者は興味・好奇心の塊である。この好奇心が向学心となり勉強に勤しむ一方で、結果的に悪い影響を被る媒体へも深入りさせてしまうのも、それもまた好奇心である。

放っておいたら汚染されてしまうことが分かっていながら、触れるメディアを「制限しない」のは実に「無責任」。健全な食事を与えないこと(健全な食事を制限し、瑣末(さまつ)な食事のみを無制限に与え続ける、またはその摂取を見逃し続けること)と同じである。

守るのは「身近な大人」しかない。つまり、「保護者(家庭)と先生(学校)」だ。繰り返しになるが、世の中は「刺激的な食べ物」と「悪影響を及ぼす情報」で溢れている。若者にその選択の全てを委ねていたら、それは「体の成長の阻害」と「心の成長と形成の阻害」を刷り込ませる一方になる。

まずは大人が主体的になって、「いけないことはいけない」と言わなければならない。食べるもの、触れるメディアを制限し、やがて、子どもが主体的に守れるようにしないといけない。その過程を「あるまじき管理」と考えてはいけない。

次に、美について。モラルやマナーについて。

こんな話から入ろうと思う。

質屋さんがルイ・ヴィトンの真贋を鑑定するにあたっては、どうやら膨大なデータとの照合があると聞いたことがある。ロゴの印刷が不鮮明だとか、タグの縫い付けがいい加減だとか、贋作者には贋作者なりの個性があって、そうした情報に精通することが鑑定の基礎となる。しかしそれは一定量以上の大量生産品についていえることで、例えば狩野永徳の贋作となると贋作自体が数千数百あるわけではないのでデータ自体が揃わない。そこで必要になってくるのが「高度の鑑定眼」ということになる。

では鑑定士たちはどのようにしてそうした眼を養ってくるのか。

これについて「開運!なんでも鑑定団」の中島誠之助さんがこんなふうに語ったことがある。

「鑑定士というのは本物と偽物を比較しながら育ってくるのではない。鑑定士たちは小さなころから良いものしか見ない。優れたもの、一流の作品をふんだんに見て育った眼には、偽物は鮮やかに浮かび上がってくる。」

なんとなく分かる。

これを、道徳と美に当てはめて言いかえてみる。

「道徳」の半分は「美」の問題である。これはテーブルマナーだとかさまざまな所作のことを考えてみれば理解できる。

肘をついてご飯を食べてはいけない、だらしない格好をしてはいけない、目上の人と話す時はこうしなさい、言葉遣いは丁寧にしなさい、とか、こういったことは、すべて善悪の問題ではない。「他人に迷惑をかけない」といった道徳の範囲にも入らない。こうしたことはすべて『それが美しいかどうか』で計られる問題なのである。そしてそれが問題となる前提として、「美しいことは重要だ」という認識がある。これは提言命題で、したがって「なぜ美しいことは重要か」という質問を許さない。そういう質問を受けること自体を想定してはいけないのである。

その上で、では「何が美しく、何が醜いか」、「その基準はどこにあるか」というと、これがまったく説明できない。なぜなら「美」はもともと説明できないものだからである。

ピカソがなぜ美しいか、モーツアルトの楽曲がなぜよいか、ある場所のある時間の風景が「美しい」のはなぜか、こうしたことは一切説明不能である。実際にたくさんの美術品や美しい風景を見る中で、自然に分かってくること、「ああ、確かにみんなが言うようにこれは美しい」と理解できるものなのである。

「躾は押し付け」という言葉を肯定的に使う人と否定的に使う人の双方がいる。しかし道徳の「美」に関する部分は、(押し付けろとまでは言わないまでも)すべてよきものを体験することでしか身につかない。「美は、黙して伝えよ」という言葉の通りである。

そして、それを分からせるには「美しいもの」「本物」に触れさせる回数を多くする以外に方法がない。(これについても詳しくは、2010年度夏のPTA会報をお読みいただきたい。)

放っておいたら子どもは自分からその回数を増やそうとはしない。逆に、「好ましくない食事」や「好ましくないメディア」に触れる回数ばかりが増えてしまう。

その時こそが、身近な大人の出番なのである。「管理だ」「何もそこまで…」と揶揄されるからといって、ここで出番を拒むような大人を私は信頼しない。そして、その「身近な大人」とは、もうお分かりのように「2つ」。

まずは「学校」。そして「家庭」。もちろん世の中のすべてがそうでなくてはいけないのだが、「すべて」という点では世の中なんてまったくアテにならない。意図的にそれを示せる「大きな組織」は「学校」しかない。「家庭」は個々は「小さな組織」なのだが、子どもにとってみれば「学校の先生」より身近で、なんでも話せ、何よりも自分の歴史(成長や悩み、性格)を全部知ってくれていて、自分と成長を共にしてきた「お父さん」「お母さん」がいる場である。

家庭内での保護者の言動、食事、子どもを正しいものに多く触れさせようという努力、正しくない物事に対する制限、保護者の皆様の価値観、どれも大切なことである。

そういう私も家庭と子どもを持つ「保護者」であるから、自戒を込めながら書いている。

今、社会は今までにない規模とスピードで崩れている。若者はその影響にすぐに染まってしまう。

その中で私ども本校の教員が胆に銘じていることは「これは『世の崩れ』と『生活指導(生活に関する教育と生活学習)』との競争である」ということである。この「生活に関する教育」についての担い手は、学校つまり教職員と、家庭つまり保護者。本校の保護者は皆、良識ある方々で、上記の食事面でも教育観においても学校として心配する必要がないということは充分に分かっていますので、一安心である。共に協調してこの局面(『世の崩れ』と『生活指導(生活に関する教育と生活学習)』との競争ですが、常に難局続きです)に向かいたいものです。

あと3つ。

まずは、「バカ野郎家族」と「ごめんなさい家族」について。この2つの家族の言葉のやり取りを比較してもらいたい。

ある日、お父さんが帰宅した時のこと。玄関先に宅急便の箱が置いてあって、お父さんがつまずいて転びそうになる。

(父)「なんだ、おい。こんなとこに荷物をほっぽらかしておいて。そういうバカは誰だ。」

(母)「何を言ってんのよ。それ、さっき届いた宅急便。自分で勝手につまずいておいて、文句ばっかり言わないでよ。」

(娘)「ちょっとちょっと、お父さん。私が注文した大切なものが入ってるんだから。自分でつまずいておいて、人のことをバカ呼ばわりしないでよ。バカは一体どっちなのよ。」

これが「バカ野郎家族」。

一方の「ごめんなさい家族」はこうなる。

ある日、お父さんが帰宅した時のこと。玄関先に宅急便の箱が置いてあって、お父さんがつまずいて転びそうになる。

(父)「おい、こんなとこに荷物がおきっぱなしだぞ。」

(母)「あ、お父さん。ごめんなさい。それ、さっき届いた宅急便。すぐに片付けようと思ってたんだけど晩御飯の準備をしてて… あら、つまずいたの? 大丈夫?」

(娘)「あ、お父さん。私が注文した宅急便なの。大切なものが入ってるから、すぐに部屋に持って行こうと思ってたんだけど… ごめんなさい。大丈夫?」

(父)「いやいや、大丈夫。俺こそ、もうちょっと気をつければ荷物に気づいたのに… 大切な荷物か? 中の品物は大丈夫か? つまずいてしまって、ごめん。」

この2つの家庭のうち、どちらの雰囲気の家庭で子どもが成長するのか。言いかえれば、どちらの親の元で子どもが日々を過ごすのか。これは決定的な違いをもたらす。そして、これは、単なる言葉使いの問題ではない。他人を思う気持ちこそが、やはり言葉の違いになって表出してくるということだ。つまり、人をどう扱っているかの問題であるのだ。

端的な「言葉の問題」だけ切り取っても、なかなか困難な時代である。最近は言葉が荒くなっている。私たちが接するテレビ番組のみではない。たとえば政治の世界。与野党間の批判、批評は、もはや罵倒、罵声になっている。特に最近は激しかった。これでは建設的な議論は望めないどころか、歩み寄りも期待できない。

タレントの言葉も、相手をバカにするようなものばかりである。

その言葉遣いは、メディアで流され、そのまま学校内にも持ち込まれる。そして、その荒い言葉に傷つく生徒もいる。その言葉のやり取りの直接的関与者のみならず、周囲の傍観者的立場の生徒までもが傷ついているケースがある。

世の中全体の雰囲気は一個人、一学校では変えられないが、せめて、学校と家庭では、言葉や人を思う気持ちについてきちんと指導したいと思う。各ご家庭で言葉の使い方、そして、家庭内の雰囲気のチェックをしていただければ幸いである。先ほどのどちらの家庭が望ましいのか、その根幹を築くのは大人の責任であるからだ。

あと2つ。まずは冒頭で書いたことについて。

現PTA会長の上條さんが春のPTA役員会で、家庭と親の大切な役割について話をしてくれた。その話の中で紹介してくださった文章を載せる。おそらく、いい言葉なので何かの折に紹介しようと思い、上條さんもPTAの集まりの際にメモを持って来ていたのでしょう。私も、いつかPTA会報で紹介しようと思い保存しておいた文章です。

『子供が育つ魔法の言葉』より

(レイチャル・ハリス ドロシー・ロー・ノルト著)

けなされて育つと 子どもは 人をけなすようになる

とげとげした家庭で育つと 子どもは 乱暴になる

不安な気持ちで育てると 子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると 子どもは みじめな気持ちになる

子どもを馬鹿にすると 引っ込みじあんな子になる

親が他人を羨んでばかりいると 子どもも人を羨むようになる

叱りつけてばかりいると 子どもは

「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば 子どもは 自信を持つようになる

広い心で接すれば キレる子にはならない

誉めてあげれば 子供は 明るい子に育つ

愛してあげれば 子供は 人を愛することを学ぶ

認めてあげれば 子供は 自分が好きになる

見つめてあげれば 子供は 頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば 子供は 思いやりを学ぶ

親が正直であれば 子供は 正直であることの大切さを知る

子どもに公平であれば 正義感のある子に育つ

優しく 思いやりをもって育てれば 子供は 優しい子に育つ

守ってあげれば 子供は 強い子に育つ

和気あいあいとした家庭で育てば 子供は この世の中は

いいところだと思えるようになる

現PTA会長の上條さんが紹介してくれた文章でした。

家庭でも学校でも「教育」(それを「管理」と呼ぶ人もいますが…)が必要であることはもちろんのことですが、今の若者の崩れを見ると家庭の在り方こそが問われていると感じます。

最後に。

表現は良くないかもしれないが「世の中の崩れや負の面、さらに社会悪」を「病」とする。その場合に「大人(先生や保護者)」がその病の実態や原因を知らなければ、診察(若者文化からの負の影響の実態把握)もできないし、治療(生活指導)もできない。処方箋(具体的指導)を出すこともできない。

世の中の雰囲気・傾向をきちんとグリップ(把握)し、日々の生活指導に反映させることは実に大切である。

また「のべつ幕なしの自由」は「自由」ではない。

学校でも家庭でも、先ほどの文章を胆に銘じながらも、しかしその一方で怠ってはいけないこと、それは、大人側が世の中の変化と影響をしっかりと感受し「いけないことはいけない」と指導することである。

今回も長い文章になってしまいましたが、最期までお読みいただきありがとうございました。

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